blog武藤文雄のサッカー講釈

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■ さよなら澤登

 86−87年の高校選手権。私は彼を初めて観た。東海大一高は、大会前から優勝候補筆頭と言われており、後日フリューゲルスやサンガで活躍する主将の大嶽直人、アデマール・サントス(ブラジルからの留学生のはしり、ヤマハ加入後負傷に悩まされ体制できず)、杉山淳一(あの大杉山の息子)などの3年生選手が注目されていた。彼は6番をつけボランチのポジションで抜群の視野の広さで2年生ながらゲームを組み立てていた。「あの6番こそ本当の大物だ、これは期待できる」と私は興奮した。これが私の最初の澤登体験だった。
 澤登はこの2年時に決勝で国見を下し高校選手権優勝。3年になると主将に就任、高校選手権準々決勝で本田(現アントラーズ)、磯貝、森山、遠藤と言った後に日本代表になる選手らを擁する帝京との「歴史的死闘」をPK戦で勝ち抜き決勝へ。決勝では小嶺国見に苦杯を喫する(これが小嶺先生の正月初制覇となる)。
 澤登はその後東海大に進む。そして、91年から92年にかけて行われたバルセロナ五輪チームの主将に任命される。当時赤かったユニフォーム、10番をつけた澤登はトップ下で、正にチームの中核として活躍した。最終予選は6国が集まってのセントラル方式、上位3位に入れば出場権を獲得できる。1勝1分け1敗で迎えた第4戦の相手は韓国。この試合を引き分けで凌げば、3位確保が有力となる勝点勘定だった。日本はこの大会の序盤で負傷欠場した石川康に代わってリベロに起用された相馬を軸に守備を固め奮闘するが、終了直前に得点を奪われ敗戦。24年振りの五輪出場は夢と消える。もし、このバルセロナ五輪に日本が出場していれば、澤登は腕章を巻いて戦っていたのだ。
 92年、翌年開幕を控えたJリーグ。チームとしての実態が無い清水エスパルスが参加を承認されたのは、大きな驚きだった。清水は、堀池(読売)、長谷川(日産)、大榎(ヤマハ)の所謂清水3羽ガラスと契約。さらに続いて、当時東海大の澤登との契約を発表。澤登はプロフェッショナルとなり、早速活躍する。
 93年、日本とUAEのダブルセントラルで行われた米国ワールドカップ1次予選、オフト氏は澤登を代表に選考する。敵地にて行われたUAEとの最終戦、この時点で日本は得失点差の関係で、6点差で負けなければ2次予選への進出が決まる状態。それでも地元の意地があるUAEは後半果敢に圧力を高め、遂に日本は先制を許す。しかし、日本は終盤福田に代わって起用されていた澤登が、見事なミドルシュートを決めて追いつく。若い気鋭のMFの見事な得点は将来に期待を抱かせるものだった。
 残念ながら澤登は「ドーハ」の2次予選は、帯同していたものの出場機会は得られず。しかし、94年に就任したファルカン氏は早々に澤登を招集。ファルカン氏は、澤登を前園と共に中盤の中核として期待して起用する。この年の秋口に広島で行われたアジア大会。澤登と前園の中盤で臨んだ日本、1次リーグでカタール、UAEと引き分けて迎えたミャンマー戦。澤登は中盤のリーダとして君臨。1得点3アシストの大活躍を見せ、いよいよ新しい時代の到来を感じさせてくれた。けれども、事はそうは巧くは運ばなかった。続く準々決勝の韓国戦、澤登は韓国の少々ラフなプレッシャに苦戦、後半半ばで交代を余儀なくされる。日本はこの試合、終盤に不運なPKを取られ敗戦。この試合を最後にファルカン氏は更迭され、加茂氏が代表監督に就任した。
 加茂氏は特に澤登を重視しなかった。さらに、95年には澤登より3歳若い名波、さらに97年には7歳も若い中田が代表に定着する事で、代表選手としての澤登の活躍の機会はどんどん減っていく。それでも、駒場で行われた97年フランスワールドカップ2次予選直前の壮行試合。日本代表対Jリーグ外国人選抜の試合、後半半ばテスト的に起用された澤登のフィールドに入る瞬間の迫力と言うか雰囲気と言うかは凄まじいものがあった。どうしても代表に戻りたかったのだろう。しかし、加茂氏も後任の岡田氏も澤登に声をかける事はなかった。
 その後トルシェ氏も幾度か澤登を代表に招集。しかし、定着する事なく、そのままエスパルスでの活躍に専念する事になる。もちろんエスパルスでの澤登のプレイ振りは存分に輝かしいものだった。中でも、エスパルスがチャンピオンズシップをジュビロと争った99年シーズン、第2戦での直接FKの美しさといったら。

 本当にいい選手だった。そして、幾多の好プレイに感謝したい。
 ただ、1つだけ今でもちょっと考え込んでしまう事がある。彼はトップ下でプレイすべき選手だったのだろうか。高校時代に期待させてくれたあの視野の広さを考えると、もう1つ後方でプレイをしていれば、もっと違う活躍ができたのではなかろうかとつい考えてしまうのだ。確かに10番が良く似合う男だったのだが...

投稿時間 2005年11月24日
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