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■ 都並新監督について(中)

 85年ワールドカップ予選時点では、完全に代表チームの中核となり、将来を嘱望され順風満帆と思われた都並。ところが、80年代後半に壁にぶつかる。

 まず代表チーム。87年に行われたソウル五輪予選。当時のアジア予選はプロ経験者の出場も可能と言うレギュレーションのため、帰国した奥寺も使えた。さらにこの大会は韓国が自動出場権を持つので、中国にさえ勝てれば20年ぶりの五輪出場権が獲得できると言う恵まれた条件だった。しかし、当時の代表監督石井氏は決して格上とは思えない中国に対して、極端な守備的サッカーを展開し、最終的に出場権も失う。都並は本来のサイドバックではなく、中盤に起用され敵MFを厳しくマークする仕事のみを任される。不得手なプレイを強制される選手を見るのはつらい。
 さらに次の代表監督は、3DFシステムで両サイドにFW出身で足が速い選手を起用(「足の速い選手」と「突破力がある選手」は異なるのだが)する議論しがたいフォーメーションを採用、都並は代表に選考されなくなる。

 読売クラブでも、都並は苦労を味わう。10代後半から20代前半にかけて「勢い」で上昇した反動が来たとも言えようか。
 都並は決して足が速い選手ではなかったので、技巧で敵を外す事はできても抜き切るのは簡単ではなかった。若い頃はそれでも思い切りの良さでクロスを上げる事で好機を演出できた。ところが、国内の試合でその動きを敵DFに読まれるようになると、突破力が無い弱みが出る。さらにデビュー時からパスを受けて抜け出す動きよりは単身突破で攻め上がるスタイルだったのも災いした。
 同様に守備面でも課題に突き当たる。前向きで激しくアプローチできる時はよいが、敵FWが他選手との連携で一旦前を向くと、得意のスライディングは有効でなくなってしまうのだ。さらに多くのチームが2トップのフォーメーションを採用し、サイドプレイヤは後方から進出するようになってきたため、中々若い頃のように単純なスライディングで敵FWを止められなくなってきた。正対の状況での守りとなると、足が速くない弱点を突かれる事も多くなる。
 若い頃のスタイルが巧く機能し過ぎたために、中堅になって苦労する事になった都並。読売では、このポジションに登場した小柄ながら瞬発力に優れた千疋(前サガン監督)にポジションを奪われる事もあった。80年代後半の都並は、読売クラブと言うトップチームの、ただの左サイドバックに過ぎなかったのだ。

 しかし、都並は生き返る。92年にハンス・オフト氏は代表監督に就任すると共に、都並を招集したのだ。当時、この招聘を聞いた時に私は「『過去の選手』を呼び戻すのはいかかがなものか」と危惧した。当時の代表の中軸だったラモスやカズの「チームメート」を呼んだだけではないかとすら思ったのだ。
 けれども私は間違えていた。オフト氏にとって左サイドを都並に任せる事はとても大事な事だったのだ。
 当時の日本代表の守備陣には井原と堀池がいた。堀池が右サイドを固め、井原が中央を固めている守備網。都並は左サイドのスペースを着実に埋めてセンターバックの井原との連携で敵の攻撃を着実につぶすのが仕事となる。これならば老練な経験による適切なポジショニングが有効になる。後方を井原がカバーしている時は若き日の思い切りのよいスライディングタックル、敵がそれを外したとしても井原がその瞬間にボールを奪い取る。
 攻めても、若い頃苦手だった味方のパスを受けて抜け出すのがすっかり巧くなっており、ラモスや井原の展開を見事に引き出す。味方の数が足りていれば左サイドに流れてくるカズと巧みな連携での崩しに参加、足りないと判断すれば(この判断がまた適切なんだな)さっさと若い頃に見せたステップワークを活かして逆サイドの福田あたりに精度の高いクロス(と言うより展開のロングパス)、攻めあぐんでいた日本はこの都並の展開だけで局面を打開する事ができた。
 92年アジアカップ。「アジアで勝てる」と言う当時は信じられなかった感動に打ち震えながら、7年振りに還って来た「アジア最高の左サイドバック」の再確保に歓喜したものだった。

 そしてドーハの悲劇...

投稿時間 2005年01月03日
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