blog武藤文雄のサッカー講釈

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■ ヤメロコール

 まとまりのつかない文章で申し訳ないが、約15年前の思い出と、最近の混乱状態についての雑感を述べる。

 早いもので、あの日本代表暗黒時代から、15年もの月日が経過した。つらい時代だった。
 85年メキシコワールドカップ予選、87年ソウル五輪予選(当時はA代表が出場していた)、いずれに日本は最終予選まで進出し、後一歩のところで出場権を逃していた。とすれば、89年に行われるイタリアワールドカップ予選こそ、適切な強化を重ね初出場と行きたいところだった。
 そのタイミングで88年早々に就任した新監督は、実に個性的な采配を振るった。当時、欧州で最新フォーメーションと言われる3−5−2を代表に取り入れたのだ。そして、いわゆる両サイドには、足の速さで敵DFラインの裏を付く事を武器にしているFWが起用された。ところが、これらの選手は味方からの好スルーパスを受けて敵守備ラインの裏を付く事を得意とする選手たちなので、サイドプレイヤのもう2つの重要な仕事、1つは敵のサイド攻撃を止める、2つ目は中盤の組み立てに参加する、は全く経験のない状態だった。結果として、これらのサイドプレイヤたちは、ほとんど代表では活躍できなかった。足の速い選手とスピードのある選手は違うのだ。極端な言い方をすれば、当時の日本は3−3−2と言うフォーメーションで戦っていたようなものだった。これでは勝つのは難しい。
 変わったやり方をしても、勝てれば文句を言う気はなかった。ところが、日本はほとんど勝てなかった。いや、弱くなった。85、87年と連続して世界大会の最終予選に出場していたにも関わらず、89年のイタリアワールドカップ予選は1次予選で敗退した。直接のライバル北朝鮮には1勝1敗だったが、香港に2引き分けだったのが痛かった。ちなみに4年前は北朝鮮に1勝1分け、香港には2勝だったのだから、相対的にも成績は落ちている。
 ところが、その監督はワールドカップ予選に敗退していも、居座ったのである。敗戦の弁は支離滅裂であったが、「日本サッカーのレベルが低かったから」と言う趣旨を実に不遜な態度で述べていた。さらに、1次予選敗退直後に南米遠征を強行したのだ。これまでならば、ワールドカップ予選の2年後には五輪予選があった。けれども、次のバルセロナ五輪からはアンダー23の大会になる事が決まっていた。とすれば、この南米遠征は一体何を目標にしたものなのか。
 しかも、選手の質はそれなりに高いのだ。次々に有力な若手選手が登場していたのだ。井原を筆頭に、堀池、柱谷哲二、阪倉、長谷川健太、黒崎、武田、菊原、福田、反町、北澤、そしてカズも帰国した。いや、加藤久も木村和司もまだ健在だった。ラモスも帰化してくれた。少し前には、古河や読売がアジアチャンピオンズカップも制していた。どう見たって、アジアの他国と比較して、負け続ける戦力ではなかったのだ。
 もう我慢できなかった。試合の度に、選手の能力は高いにも関わらず、相も変わらぬ3−3−2を見せられ、あえなく負け、監督は不遜な発言を繰り返す。
 そう、もう我慢できなかったのだ。でも、私たちには口があった。だから、競技場でも、記者会見席に聞こえるような場所でも、本人を目の前にしても、代表に関係ない試合でも、「ヤメロコール」をしたのだ。私たちは、周囲から見ればずいぶん迷惑な存在だったかもしれない。

 15年前の経緯なんて、こんなものだ。
 ちなみにあの頃に、インタネットがあったらどうなっていたのだろうか、ちょっと興味深いな。

 もう1つ。署名運動について。私の友人が発起人になり代表監督退任要望の署名活動をしたのも、比較的知られた話だと思う。当時集まった署名は約千人分。今から思えば、ほんの僅かな人数か。日本協会に友人が持ち込んだ時、当時の専務理事の対応は「困惑そのもの」だった。したがってこの文章の記述は事実と異なっている。確かに専務理事は、友人に同行してきた一部のマスコミの方が「自分も署名者の1人だ」と発言した事に対しては不愉快な態度を見せたのは事実だが。それこそ、専務理事が友人を一喝でもしていたら、いくら注目の少ないサッカーでも格好のマスコミの好餌となった事だろうが。
 当時の協会としては、そのまま握りつぶすしか選択肢はなかったのだろう。したがって、我々の「ヤメロ」コールはそのまま継続する事になる。一方で協会関係者が、公の席で監督を守る発言をする事もほとんどなかった。

 その暗黒時代を完了させたのは、92年にオフト氏を招聘した当時の強化委員長の川淵三郎氏だったのだ。あのオフト氏初戦のキリンカップアルゼンチン戦の喜びといったら。
 だからこそ一層、今日の現状は悲しいものがある。ここ数日、自分なりにも色々な事を考えている。私は国立で「カワブチ、ヤメロ!」コールをするつもりだ。試合終了後、間に合えばデモにも参加するつもりだ。ただ、やはり、悲しいのだ。結局、私は川淵氏の事が好きなのだ。尊敬もしているし、感謝もしているのだ。しかし、週刊文春や日本経済新聞でのインタビューを読み、「何が問題となっているのか」も「自分の論理に説得性があるのか」も、わからなくなってしまっている川淵氏を見るのが本当につらい。川淵氏の過去の実績を傷つけないためにも、すぐに辞めてほしいのだ。
 まあ、すぐには辞めそうもないから、継続する事になるのだろうけれど。

 ついでに余談。
 ちょっと最近気になるのが、本件に関して、インタネット上で他者を排する意見が頻繁に見受けられる事。
 年端も言っていないだろう若者が、論理も通っていない文章で「デモ反対」を唱えたって構わないではないか。そのような発言に対して、複数のBLOGが反論しているが、人それぞれ多様な考え方があってよいし、たとて拙い意見でも、自由に述べる事ができるのが、インタネットのよさなのではないのだろうか。そして、読者それぞれが自己責任で「正しいと思う意見」を選ぶのが、インタネットの考え方なのではなかろうか。むしろ、賛否両論ある方がよほど健全なのではないだろうか。

投稿時間 2006年08月07日
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