blog武藤文雄のサッカー講釈

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■ 中田の謎

 中田がプレミアのボルトン入りを決めた。ドイツワールドカップを1年後に控え、足掛け7年のセリエA生活から、イングランドへの転身。オコチャ、ボルへティなど世界トップレベルのチームメートとの連動、UEFAカップでの活躍、上り調子のクラブ、そのような恵まれた環境で紛れも無い世界のトッププレイヤの1人として活躍し、来年のワールドカップを迎える事に期待は高まる。 
 しかし、堪能な英語での記者会見映像を観ながら、中田の過去を反芻し、複雑な気持ちになってきた。この7年間に、彼はいかほどに成長したのだろうかと。考えてみれば、2年前にも同じような不安を抱いた事があった。そして、2年がまた経った訳だが、未だ同じ気持ちを抱かずにはいられない。

 ここまでの中田の実績を改めて振り返ってみる。

 私が中田を初めて観たのは、93年日本開催のU17世界大会。引き気味のウィングのポジションから突破を狙う技巧と知性に、大いなる将来性を感じたものだった。94年のアジアユースには高校生で出場、日本史上初めてとなる予選突破に貢献。その後、ベルマーレに加入しすぐレギュラに。95年のワールドユースではベスト8進出し、その後五輪代表に。96年の五輪予選でも攻撃の中核として28年ぶりの五輪出場権獲得に貢献、アトランタ本大会でも存分に個人能力を発揮する。97年の春にはついにA代表に。そしてあのフランス予選では文字通り中心選手として大奮闘し、ワールドカップ初出場の最大の立役者の1人となった。
 年齢で例えれば、ドイツワールドカップ予選を勝ち抜いた代表チームの攻撃のリーダをジュビロの成岡が務めたようなものだったのだ。
 そして98年フランス。期待通り中田はフル回転。アルゼンチン、クロアチアの世界最高クラスのMFと堂々と渡り合った。クロアチア戦、名波の展開を受けた中田が、前線でフリーで抜け出した中山へ通した鮮やかなパスの軌跡の美しさと言ったら。
 フランス大会終了後、半ば当然のように中田はセリエAのペルージャに移籍する。そして、開幕戦のユベントス戦の2得点を皮切りに、一気にセリエAのトッププレイヤに。そして99年シーズン半ばには、ローマに移籍。

 ここまでの中田の成長振りは、実に見事なものだった。U17からローマに至るまで6年の歳月。細身で技巧的だった甲斐の若者は信じ難い速さで成長し、湘南の地を経て、長靴の国のトッププレイヤになった。その間僅か6年。

 そして、ローマに移籍してから、また6年の歳月が経過した。この後半の6年間で、中田はいかほど成長したのだろうか。疑問は尽きないのだ。もちろん、エンジに橙の襟でも、青と黄の横縞でも、赤と青の縦縞でも、紫でも、登場すれば中田は見事なプレイを見せてくれてきた。しかし...
 どうして現状のフィオレンティナ程度のクラブで試合に出る事ができなかったのか。
 移籍の度に「引く手あまた」と言うよりは「ようやく所属クラブが決まった」と言う印象なのは気のせいなのか。
 そして、「本当の意味での欧州のトップクラブ」に加入する事が無いのは何故なのか。
 
 一方で、日の丸を付ける度に中田は抜群の能力の下、我々に幾多の歓喜を提供してくれてきた。最近を考えても、3月のテヘランイラン戦以降、ワールドカップ予選、コンフェデと、中田は5試合に出場。いずれの試合でも、素晴らしい能力を発揮している。中でもブラジル戦の中田は、いずれのセレソンにも勝るとも劣らないプレイを見せてくれた。青いユニフォームを身にまとった中田は、紛れも無いワールドクラスのプレイヤなのだ。

 だからこそ一層疑問は尽きないのだ。
 まあ、いいだろう。謎は謎のままでも問題ない。重要なのは今シーズン。新たな国の新たなクラブ。ボルトンで中田が、サッカーの母国に君臨し、シーズン終了後には絶対的な存在としてドイツに降り立ってくれるのならば。

投稿時間 2005年08月18日
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