マラソンでトップを快走するブラジルのデ・リマが、暴漢に襲われた場面にはゾッとした。随分前の箱根駅伝で走者が暴漢に襲われた事件があったが、決定的な影響がある前に周囲が取り押さる事ができた。しかし、この日のデ・リマは、完全になぎ倒されてしまい、タイムロスのみならず、走りそのものにも多大な影響が出てしまったようだ。マラソンの場合、再試合をする訳にもいかないだろうし、何とも後味の悪い事になってしまった。
昔、友人と飲みながら議論した事があった。「サッカーの大事な試合でホームチームが負けている時に、ホームチームのサポータがフィールドに乱入し敵ゴールにシュートを蹴り込んだり、自陣の決定的ピンチを防いだ時に、審判はどのような判定を下すべきなのだろうか」と。今回のマラソンの事件はそれに近い事態だった。サッカー場で事はそうは巧くは事を運ばないだろうが、マラソンならば警備の隙をつけば、あそこまでの暴挙が可能になってしまうのはショッキング。どうやら、暴漢は前科持ちの精神異常者だったようだが、後方から追い上げている選手の同国人や関係者が犯人だったとしたら、主催者サイドはどのような判定をすべきなのだろうか。
室伏の金メダル獲得につながったドーピング問題。問題の選手は再検査に応じないと言うのだから、自ら有罪を認めた訳だ。今回尿サンプルのすり替えや、提出の早さなどが話題になったが、これはあまり表ざたにはなっていないがサッカーでも聞く話。我々サポータが歓喜に震え、ビールで乾杯している時に、一部の選手は尿が出るまでジッと我慢しながら検査を待っているのだ。
採点で勝負がつく競技のいい加減さは、今大会に始まった事ではない。例えば体操。最近の採点法では、成功した技の難易度による客観法に安定してきたとの報道があった。しかし、個人戦での集計ミス(あれは金メダルは韓国選手に与えられるべきだろう)、さらには富田の平行棒での「最初の演技者」ゆえの不利など、結局グダグダになってしまった。
その後も、レスリング、シンクロナイズドスイミングなど、訳のわからない採点による勝敗が継続した。まあ、そう言うものなのだろう。サッカーにしても、女子の米国戦の悔しい2失点はいずれも疑惑の判定だったし、逆にパラグアイ戦では疑惑のPKを2つもらっていたのだし。審判まで引き付けられての勝敗なのだ。月並みな言い方になるが、審判が何をどう判定しようとも、冷静に次善を目指すのが勝利への道なのだろう。
その中で、シドニー五輪に比べて審判法に格段に進歩があったように感じられたのが柔道。前大会の篠原の痛恨が、我々にはあまりに印象的だったせいだろうか。我々から見て理解不能な指導や教育も見られなかった。何より同点の場合はサドンデスの延長戦となり、各選手が技を仕掛け、一本狙いだったのが爽快感を高めたのか。
個人的に感銘を受けたのが、銀メダルに終わった2人、泉と横沢。泉は決勝で敵を投げようとして、逆に裏投げ?で返されて敗れた。横沢は決勝で敗れたが、準決勝で残り0秒!で敵を投げ飛ばして一本を取った。それぞれ、一本狙いの面白さを堪能できた。
そして、感心したのが井上康生。痛恨の敗退以降も、日本チーム全体の主将?との立場からか、ギリシャに残り、他競技にも顔を出すなど、単なる一選手を越えた働きをしていた。これは凄い。本人が単なる1プレイヤではなく、競技者として日本を代表する存在だと自覚しているからだろう。そして、トッププレイヤにそのような教育をしているところに、日本柔道界の強みを感じた。
そして、今回の柔道の審判法の格段の向上、見て面白い一本の重視などは、こちらの方が、国際柔道連盟の理事として機能していたからとの事だ。柔道界は、井上を彼の後継者として帝王教育を行っているのだろう。これこそ伝統の強みだろう。非常に乱暴な言い方になるが、中田や小野はまだ、そこまでの要求はなされていない。中田や小野がそこまですべきかどうかはさておき、井上は周囲からそのような扱いを受けている事は事実なのだ。
